第2回 大賞作品

手巻き腕時計 野崎 清 (埼玉県 89歳)

綴ってくださってありがとう

選定委員:大平おおだいら 一枝(ライター)

 海を見ながら暮らしたいという奥さんのために買ったケア付きマンションは、リビングの窓いっぱいに青い海が広がる。絶景ですね、奥様も喜ばれたでしょうと言うと野崎清さんは静かに微笑んだ。
 「家内がここで過ごせたのは3日間です。もっと海を見せたかったなと思います」
 心臓病を長く患っていた彼女の、命の期限を覚悟しての滞在だったという。
 昭和30年代、時計を買った新婚の頃は経済的に困窮していた。
 「同居の私の母が結核で、給料の半分は医療費でした。子どもも妻も一時期はバラバラに住んだりして、家計は苦しかった。でも家内は愚痴ひとつ言わない優しい人で。時計は、自分のを選んでレジまで持ちかけたのです。でも、じ〜っと見ていたら気が引けてきて」
 大正生まれの男性が、妻のことを「優しい人」と表する。そう言える野崎さんの優しさを私は思った。
 夫婦として歩んできた歳月は、三つに分けられるそうだ。一緒にいて楽しい時期、空気のように普通の存在で、子育てや介護に忙しいとき、そして病を患った奥さんの世話をしながら、食べるものも住むものも、すべて彼女を優先して過ごした時期。その思いやりは晩年の奥さんに伝わっていたのだろうか。
 「伝わってないと思う。でも伝わらなくたって良いんです」
 添い遂げるとはこういうことかと胸が震えた。「私だけこうして生きていていいんだろうかとときどき思うことがあります」と野崎さんは言う。遠き日の記憶の扉を開け、奥さんとのあたたかな思い出を書き留めてくださった。この作品から、たくさんの人が、自分にとってかけがえのないものを思い出すだろう。大事にしたい存在にも気づくだろう。よく書いてくださったと心からお礼を言いたいし、まだまだ教えて欲しい。今という時代に失ってはいけないものは何かと。