第2回 大賞作品

戻ってきた風船 松本 千佳(奈良県 34歳)

さりげなくて、なかなか
できへん

選定委員:栗田 亘(コラムニスト)

 ふだん、あまり起こらないような出来事を「事件」と呼びます。これは事件でしょう。
 ボクは昔、社会部記者でした。事件取材の基本に沿って、まず松本千佳(ちか)さんと娘の咲希(さき)ちゃんに会いました。とても愉快な時間でした。それから事件現場の近鉄・学園前駅に行きました。特急が止まり、バスターミナルが広がる大きな駅です。
 改札口を入って少し歩くと、名物の柿の葉ずしの売店があります。黄色い風船がヒョイと咲希ちゃんの手から逃げたのは売店の前でした。
 風船は高~い天井へと急上昇し、千佳さんは何度かジャンプしてみたけれど、もうあきらめようと思いました。そこへ二人の若者が現れます。それぞれ大きなバッグを持っていたから、学生かもしれません。
 肩車して、かけ声をかけながら同時にジャンプする。若くてもたいへんな運動です。四回、五回、六回…。そう、奇跡的!手が触れて、風船は地上に帰還しました。
 夕方四時頃ですから、けっこう乗降客がいました。成功の瞬間、立ち止まった人たちが「オーッ」とどよめきました。咲希ちゃんはびっくりしたのと嬉しいのとで、ちょっと泣いたそうです。
 若者たちは入ってきた電車に急ぎ足で乗りこみ、千佳さん母娘も後ろのほうの車両に乗って、短い事件は終わります。
 夜、帰宅した夫の和剛(かずたか)さんは「ヘーすごいなあ。オレはできへんなあ」と言いました。ホントできへんなあ、なかなか。
 咲希ちゃんがたいせつにしていた風船は、数日後しぼんで役目を果たし、いつの間にかさりげなく姿を消しました。
 千佳さんはこの話をほかの人にぜひ伝えたいと思いました。そこへ預金先の銀行から手紙が届き、中にたまたま「わたし遺産」募集のパンフレットが入っていた。で、この素敵な報告が誕生したというわけです。