第1回 大賞作品

愛が詰まった手作り教科書 北澤 和子 (兵庫県 65歳)

一生を支える「スワン」の力

選定委員:穂村 弘(歌人)

 小学生の時、私も図書館で借りた本を紛失してしまったことがある。目の前が真っ暗になった。その絶望の純度は、大人になった今では考えられないほど高かった。まして、失くしたのが教科書だったら、と小学生の北澤さんの気持ちを想像して胸が痛くなった。取り返しがつかない、という思いに震えて、泣きたくなっただろう。
 平成の今なら、同じことが起こっても取り返しはつく。教科書は買い直せるだろう。なんなら当座はコピーで凌いでもいい。だが、御本人にお話を伺ったところ、当時は昭和三十二年である。どちらも不可能なのだ。どうしていいのか全く途方に暮れてしまう。
 絶体絶命のピンチ。ところが、お父さんとお母さんのおかげで、北澤さんの世界は再び光を取り戻した。「世界にひとつだけの教科書は、同級生の間で評判になり、休み時間にのぞきにくる友も多かった」と書かれているが、これは一種の奇蹟に思える。だって、仮に同じ教科書を買い直せても状況は元に戻るだけ。一冊丸ごとコピーしたら原本の劣化版ができるだけ。だが、買い戻すこともコピーすることもできない状況で、御両親による手作り教科書は、それ以上の何かをもたらしたのだ。マイナスを大きなプラスに変える奇蹟の原動力は愛情であり、表紙に貼られた「スワン」は、その象徴なのだろう。これは想像だけど、途中からはお父さんもお母さんも娘の教科書作りを楽しんだんじゃないか。
 十数年後、大人になった北澤さんは国語の先生になられたという。それを伺ったとき、ああ、やっぱり、と思った自分がいた。幼い日に国語の教科書を失くしたこと。御両親に「スワン」の教科書を作ってもらったこと。それらと御自身の進路に関係があるのかないのか、それはわからない。でも、きっといい先生だったんだろうな、という気がする。絶体絶命のピンチにも諦めない強さや、絶望した子供に寄り添う優しさ、何よりも自分を愛してくれる人の温かさを、身を以て体験されているのだから。

受賞者インタビュー

「わたし遺産」は、
心の中にのこります。

「わたし遺産」に応募しようと思った「きっかけ」をお聞かせください。

 両親が亡くなった時に、実家から色々と両親の書いた物が出てきました。そこで改めて親の愛に触れ、同時に感謝する気持ちもありました。私は書くのは得意ではないのですが、母が書いたものなどを読み、私も書いて残しておきたい、伝えたいという気持ちが強くなって、自分自身の感謝の気持ちを書きたいなと思っていたんです。「わたし遺産」という言葉を見た時に、面白い言葉だなと思い、ふとひらめきました。この年になって、私も子どもたちに伝えていきたい、読んで欲しいという気持ちで書きました。

手作りの教科書を実際に使ってみた時は、どのような感じだったのでしょうか?

 友だちが見に来て、当時話題になったことを覚えています。最初、表紙は中身と同じ真っ白の紙で殺風景だったので、青字に白いスワンの絵を貼って仕上げてくれて、私は誇らしいような感じで使っていました。友だちも本物の教科書とそっくりに作られているのを見て驚いていました。

通われた小学校や当時に対する思いをお聞かせください。

 母校は135年の歴史がありましたが、校舎の建て替えをやるには生徒が少なすぎるため、統廃合になりました。この辺りも少しずつ小学校など歴史的なものが失われて過疎化が進んでいますが、自分が生まれ育った場所なので非常に愛着があります。作品当時は1957年ですが、小学校の頃は何でも手作りの時代で、母はお揃いの服も手作りしてくれました。お風呂も料理も、まず火を起こしてからという時代で、だんだん電化製品が出て来た時代でもありました。教科書だって今ならコピーして終わりです。当時は不便なこともたくさんありましたが、温かくていい時代でした。

大賞に選ばれた時のお気持ちをお聞かせください。

 書いたことを忘れていたので、本当かなと思って、最初は信じられませんでした。

今回の受賞や取材・撮影を振り返られて、ご感想をお願い致します。

 取材や撮影があるとは思わなかったのでビックリしました。でも私はすごく楽しかったです。選定委員の穂村さんはすごく親しみやすい方で、父ののこした物も色々と見ていただいて、少し日の目を見て供養といいますか、父も喜んでいると思います。今、もうこの手作り教科書はありません。母校も2009年に閉校になりました。でも、「わたし遺産」というのは心の中にのこるのかなと思っています。

インタビューイメージ
News 1 探し続けていた手作り教科書がついに見つかりました!