第8回 大賞作品

行かせてやりなよ 菅澤 多絵子 (東京都 46歳)

後光の人

選定委員:大平おおだいら 一枝(ライター)

 ペンギンショーは、9年前、3歳頃のことだそうだ。息子さんは2歳で自閉症と診断された。「30秒もじっとしていられず、ATMでもスーパーでも、修羅場の連続でした」と、多絵子さんは振り返る。
 聴覚過敏のために泣いている乳児がいると自分もパニックになる。急に駆け出したり、よその子の髪を引っ張ったり。冷たい視線のなか、どこでもひたすら「ごめんなさい」と頭を下げ続けた。「もっと躾したら」と同年代の母親に言われたときは、帰宅後、涙が止まらなかった。
 だから『わたし遺産』で、真っ先に「あのおじさん」が浮かんだ。
「満席近いなかで泣きわめく息子を、みな遠巻きに怪訝な顔で見ていて。でもおじさんの言葉で、その場全体がふわっとゆるんだのです。前の若いカップルが“こちらにどうぞ”と。息子もすっと落ち着いて。高齢の方からどんな躾しているんだと街で怒られることが多かったので、とりわけ嬉しかった。本当に後光がさして見えました」
 コロナ禍で、世間の不寛容を感じることが増えた。だからこそ、たった一言で集団を優しい空気に変えた人の想像力に私は打たれる。さりげなく他者の心苦しさを慮(おもんばか)る力に。病者だけでなく寛容さが必要な場面は誰にでもある。
 成長した息子さんと今は、何でも語り合うという。ところで、街で謝り続けていた頃、ほかにおじさんのような経験は? 「ないです」。少し申し訳なさそうに彼女は答えた。
 私は、受賞作が多くの人に読まれるよう強く願っている。