「インフレへの勝利宣言にはまだ早い」

2024年2月22日

「3月利下げの公算は小さい」――。

パウエルFRB(連邦準備制度理事会)議長は1月31日のFOMC(連邦公開市場委員会)後の記者会見でこのように述べ、早期利下げ観測を牽制しました。

パンデミック後の米国のインフレの状況

図1に示したように、米国の物価上昇率が加速し始めたのは、新型コロナウイルスのパンデミックの2年目である2021年でした。インフレ率の加速を受けてFRBが利上げを開始したのは2022年3月で、その時のCPI(消費者物価指数)の前年同月比上昇率は総合で+8.5%、コア(食品・エネルギーを除いた総合)で+6.5%と、FRBが目標とする+2%を大幅に上回っていました。

(図1)米国の消費者物価上昇率(前年同月比)

(出所:Bloombergのデータより作成)

物価上昇率が加速していた2021年6月に、パウエル議長は「供給の不均衡が解消すれば、インフレ率は長期目標へ向けて鈍化するだろう」と発言し、インフレ加速を一時的なものと捉えていました。

供給の不均衡とは、需要があっても商品・サービスの供給が制限されることを指します。例えば、パンデミックによってサービス業を中心に労働者が仕事を辞めてしまい、経済活動が再開しても人材採用が困難になりました。これは日本でもタクシーやバスの運転手が不足しているなど、同様の現象が起こっています。また、世界各国のロックダウン(都市封鎖)などで半導体の生産・供給が滞ったことで、様々な工業製品の生産に影響が及びました。半導体不足で自動車の生産台数が落ち込んだとのニュースをご記憶の方も多いでしょう。卑近な例で恐縮ですが、筆者もガス給湯器を買い替えようと2022年1月に発注しましたが、実際に据え付けが完了したのは2022年6月と、5ヵ月も待つことになりました。

2021年当時のパウエル議長のインフレ早期鎮静期待は実現せず、FRBは2022年3月から2023年7月までにFF金利を5.25%ポイントも引き上げました。利上げの効果に加えて、供給制約も緩和され、図1にあるように足もとでインフレ率はかなり減速しています。

インフレへの勝利に近づいてはいる

2023年12月時点の米国のCPI前年同月比上昇率は、総合+3.4%、コア+3.9%でした。総合のピーク時(2022年6月)+9.1%、コアのピーク時(2022年9月)+6.6%と比較すると大幅に鈍化しています。

このような状況から、2024年にFRBが利下げに踏み切るとの見方が優勢です。2023年12月13日に公表されたFOMCメンバー予想の中央値でも、今年年末までに0.75%ポイントの利下げが示されています。市場参加者はさらに大幅利下げを見込んでおり、今年の利下げ幅を1.00~1.50%ポイントと予想する向きが多い状況です。

ただし、2024年に入って、FRB要人から利下げに慎重な発言が目立つようになっています。冒頭のパウエル議長の発言もそうですし、2月以降に、ボウマンFRB理事が「まだ利下げの段階に達していない」、クリーブランド連銀のメスター総裁が「インフレが2%に戻る道筋にあるとの十分な証拠がないまま早期に利下げをするのは間違い」、ミネアポリス連銀のカシュカリ総裁が「インフレは目標の2%へ下がる軌道を進んでいるが任務はまだ終わっていない」などと発言しており、インフレへの勝利宣言にはまだ早いと考えているようです。

実際、図1のCPI上昇率を見ると、2023年後半に減速傾向に歯止めがかかっている模様です。特に、家賃を除いたサービス価格上昇率は、2023年8月にパウエル議長がもっと鈍化が必要と指摘していましたが、3%台前半で下げ止まっています。2月2日に公表された雇用統計が非常に強い内容だったことは記憶に新しいですが、雇用が強いと賃金に上昇圧力がかかり、それがサービス価格へ転嫁されてインフレを押し上げることに繋がります。

以上のように、経済指標のデータを確認すると、金融政策当局者としてはまだインフレへの勝利宣言を出す段階ではないのは頷けます。

勝利宣言の前に横たわる地政学問題

インフレ率の鈍化傾向がこのまま進むかどうかに影響する厄介な問題がほかにもあります。それは地政学リスクに起因する物流の停滞であり、供給制約の問題です。

読者の皆さまもご存じの通り、中東で紛争激化への懸念が高まっています。イエメンの武装組織フーシ派などによる船舶への攻撃で紅海の航行が困難になっており、アジアとヨーロッパの間の物流に影響が出てきています。喜望峰へ遠回りしたり、保険料が引き上げられたり、輸送コストの上昇に繋がります。

図2は、ニューヨーク連邦準備銀行が公表しているグローバルサプライチェーン圧力指数で、世界のサプライチェーンの状況を示したものです。2011年3月に発生した東日本大震災では、日本の東北地方の生産設備が打撃を受けたために、供給制約が高まりました。また、2020年のパンデミックでは、世界各国で行動制限がかけられたため、供給制約は極めて厳しいものとなりました。ニューヨーク連銀によると、この指数は米国の財価格と連動する傾向があるとのことです。

(図2)グローバルサプライチェーン圧力指数

(出所:Bloombergのデータより作成)

グローバルサプライチェーン圧力指数は2023年に過去の平均(ゼロ)近傍に低下し、供給制約の問題は解消したと思われました。しかし、2023年10月7日にパレスチナ自治区ガザを実効支配するイスラム組織ハマスがイスラエルを大規模攻撃したことで、中東の緊張が一気に高まりました。グローバルサプライチェーン圧力指数はまだゼロ近傍ですが、制約緩和の動きは反転しています。

地政学リスクの高まりが世界的な物流網を停滞させると、FRBが見据えている物価目標への道筋が上方向に外れる可能性があります。FRBは米国国内の経済問題には対処可能でしょうが、グローバルな地政学リスクに基づく供給制約への対処はFRBの能力を超えています。

インフレへの勝利宣言の前に、この厄介な問題が顕在化するかどうか、平和解決を祈りながら情勢を見守るのみです。

(三井住友信託銀行マーケット企画部 瀬良礼子)

《本資料は執筆者の見解を記したものであり、当社としての見通しとは必ずしも一致しません。本資料のデータは各種の情報源から入手したものですが、正確性、完全性を全面的に保証するものではありません。また、作成時点で入手可能なデータに基づき経済・金融情報を提供するものであり、投資勧誘を目的としたものではありません。投資に関する最終決定はお客さまご自身の判断でなさるようにお願い申し上げます。》

執筆者紹介 瀬良 礼子

執筆者紹介 瀬良 礼子 せらあやこ

三井住友信託銀行マーケット・ストラテジスト

1990年に京都大学法学部卒業後、三井住友信託銀行に入社。公的資金運用部にて約6年間、受託資産の債券運用・株式運用・資産配分業務に携わった後、総合資金部で自己勘定の運用企画を担当。以後、現在にいたるまで、為替・金利を中心にマーケット分析に従事。

執筆者関連書籍のご紹介
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