第79回「『平和の配当』が失われた時代 国際秩序の動揺が招くインフレ圧力」
2026年4月30日
「冷戦終結に伴い、国防費削減分を経済力回復に振り向けるべき」――。
1990年前後、ノーベル経済学者のワシリー・レオンチェフ氏はこのように主張し、「平和の配当」論を唱えました。
冷戦後の国際秩序は転換
レオンチェフ氏だけでなく、冷戦が終了したことで国防費を削減し、その資金を経済や社会プログラムに振り向けるべきだという議論は、ジョージ・H・W・ブッシュ米大統領(当時)やマーガレット・サッチャー英首相(当時)などがスローガンとして広めたとされています。
冷戦終結は、国防費の削減だけでなく、旧東側の低コストの労働力の活用(特に中国への工場進出など)、インターネットやGPSなど軍事技術の民間転用、航行自由など、世界経済に大きな利益をもたらしたと言えるでしょう。特に、低賃金の国・地域への生産拠点の移管は、生産コストの低下を通じて、世界的なディスインフレ傾向につながったと見ています。
1989年12月のマルタ会談における冷戦終結宣言から26年が経過した2016年に、英国では欧州連合離脱が国民投票で可決され、米国ではトランプ氏が大統領選挙に勝利しました。グローバル化で国際的に協調していこうという姿勢から、自国第一主義的な姿勢への転換の象徴的な出来事だったと思います。グローバル化の恩恵があまねく全世界に平等に振り向けられてはいないことが、グローバル化の逆回転につながったのではないでしょうか。
このように、10年以上前から「平和の配当」は失われつつあり、2022年2月のロシアによるウクライナ侵攻、そして、2026年2月28日に始まった米国・イスラエルによるイラン攻撃と、国際秩序の動揺は加速しています。
物価上昇率と金利の長期トレンド
この国際秩序の転換は、物価上昇率と金利のトレンドにも反映している模様です。
図1は長期金利と消費者物価上昇率の推移を比較したもので、2025年9月に公開した第73回「粘着性のある物価上昇」で取り上げた図のデータを更新したものです。赤い折れ線グラフのCPI上昇率・前方10年間平均は、各時点における以後10年間のCPIの年平均上昇率を示しています。ただし、その時点ではその後の物価上昇率はわかりません。
(出所:Bloombergのデータより作成)
1973年12月以降、10年国債で運用することで物価上昇率を上回ることできたわけですが、2012年12月に逆転し、10年間平均のCPI上昇率が判明している2016年2月まで、長期金利が物価に割り負ける状況が続いています。しかし、10年国債利回りは2025年12月に2%を上回り、2026年4月13日には一時2.49%まで上昇するなど、長期金利が上昇してきています。もし、今後10年間にわたって物価上昇率が日銀の目標通り2%程度で継続すると、割り負けの状況は解消されることになります。
しかし、今後10年間の物価上昇率が一様に2%で継続することは保障されていません。実際、現下の中東情勢緊迫化により原油価格高騰で物価に上昇圧力がかかっています。そうなると、もっと高い金利でないと債券を保有できないとして、金利にも上昇圧力がかかる可能性があります。また、国際秩序の動揺で防衛費の拡大など、財政悪化による金利上昇圧力も警戒されます。
「平和の配当」が失われた時代の物価・金利の在り方は、これまでとは大きく変化した可能性があることをしっかりと認識する必要があるのではないでしょうか。
債券市場・企業・家計の物価見通し
ここで、将来の物価見通しについて、債券市場での織り込みと、企業・家計へのアンケート調査の状況を確認したいと思います。図2は、2014年以降の、債券市場・企業・家計の物価見通しの推移です。直近データは家計が2025年12月調査、企業が2026年3月調査、債券市場の織り込みが2026年3月時点、実際のCPI上昇率が2026年2月時点のものです。
(出所:日銀・Bloombergのデータより作成)
家計の5年後の見通しはイラン攻撃前の調査でもかなり高い見通しになっています。企業はややマイルドな物価上昇見通しですが、じわじわと高まってきています。一方で、債券市場の織り込み状況は2%を下回っており、物価上振れ警戒はあまりないように見えますが、2020年を底にして徐々に上昇傾向にあることは注意するべきでしょう。
光熱費の政府支援や米価格の落ち着きで、実際のCPI上昇率は2026年2月時点で2%を下回っていますが、米国のイラン攻撃以降のエネルギー価格高騰で、今後は上昇が警戒されます。
物価上昇率は短期的には加速・減速の双方に振れると思われますが、長期的なトレンドは加速方向の圧力がかかるため、心構えや行動様式も「平和の配当」が失われた時代への適応が鍵になるでしょう。
執筆者紹介
瀬良 礼子(せら あやこ)
三井住友信託銀行シニアマーケットストラテジスト
1990年に京都大学法学部卒業後、三井住友信託銀行に入社。公的資金運用部にて約6年間、受託資産の債券運用・株式運用・資産配分業務に携わった後、総合資金部で自己勘定の運用企画を担当。以後、現在にいたるまで、為替・金利を中心にマーケット分析に従事。
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